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翻訳コラム13(法務)
契約書のAI翻訳が危ない理由
実際に持ち込まれた“誤訳例”と安全なラインの引き方
生成AIや機械翻訳の進化で、ビジネス文書の多くは「とりあえずおおまかな意味はわかる」レベルまで自動翻訳できるようになりました。社内メールや簡単なお知らせであれば、AI翻訳だけで済ませている企業様も多いと思います。
しかし——まだまだAI翻訳をそのまま実務に使うのが非常に危険な分野もあります。契約書はその代表例のひとつと言えるでしょう。
実際、特に2025年に入ってからは、当社にも
「まずAIで英訳してみたが、このまま使用して大丈夫かチェックしてほしい」
といったご相談が目に見えて増えています。
実際に拝見すると、一見自然な日本語or英語になっているのに、契約上の意味が逆転してしまっていたり、原文にない情報が入っていたりするケースが少なくありません。
■AI翻訳した契約書の使用が「特に危険」な理由
1. AI翻訳は「パターン」で訳し、「責任」を理解していない
AI翻訳は、過去の大量のテキストをもとに「統計的に確からしい訳文」を出力する仕組みとなっています。
従って、「自然な文章の生成」には強い一方で、「この一文にどういう法的な効果があるのか」「当事者にどんな義務・責任を生じさせるのか」といった部分までは配慮しません(少なくともアウトプットからはそのように見える)。
しかし、曖昧さの排除と一義性が求められる契約の世界では、たった一語の違いで、
- “やってもよい”なのか
- “やらなければならない”のか
- “やってはいけない”のか
を分けてしまいます。
AI翻訳はここを「それっぽい表現」で埋めてしまうため、読みやすいが危険な訳文になってしまうのです。
2. 英米法と日本法の「前提知識」を持っていない
例えば、契約法の世界で頻出する “consideration” という単語。
英和辞書を引くと「考慮」、「検討」、「配慮」などの訳語が出てきますが、契約書の文脈では「約因」という法的な意味があります。しかし、AI翻訳はこれを辞書通り「検討」、「配慮」などと誤訳してしまうことがあります。もちろん生成AIであれば「契約書の翻訳である」という前提情報を食わせておけば、一定程度解消される部分もありますが、それでも原文の単語のならび方によっては、
This Agreement is made for good and valuable consideration…
のような文が「本契約は適切な検討のもとに締結され…」のような、まったく意味の通らない日本語になってしまうことがあります。このように、契約書には契約書独特の表現を理解していないと意味が取れない表現が数多く含まれており、ここは最終的には人間の知識・経験に頼らざるを得ない部分です。
3. 日本語契約特有の“曖昧な表現”を、AIが勝手に具体化してしまう
日本語の契約書には、次のような表現が頻出します。
- 「双方協議の上、定めるものとする」
- 「必要に応じて」
- 「合理的な範囲で」
- 「誠意をもって対応する」
いずれも、あえて“グレーの余地”を残すことで、将来の事情変更や当事者間の力関係を吸収しようとする日本語契約ならではの工夫です。
こういった条文をそのまま訳すと英文契約書としては曖昧で法的意味を持たない条文になってしまうという課題は確かにあり、具体的記述を追加するか、あえて曖昧性を残すかという契約当事者の判断が求められる部分ではあります。
しかし、AI翻訳はこれに対して「自然で分かりやすい英語」を出そうとして、余計な“善意”を働かせてしまうことがあります。
たとえば、
- 「合理的な範囲で」を、AIが「within commercially reasonable efforts」と解釈してしまう
- 「必要に応じて」を、「if necessary and subject to the prior written consent of Company A」のように、原文にない条件付きの英語にしてしまう
といった具合に、原文には存在しない前提・条件・限定を、AIが“意味を汲み取ったつもりで”勝手に書き足してしまうことがあります。
いわゆる「ハルシネーション」(AIが生み出す幻想)に類する現象とも言えますが、契約書の翻訳においては「原文と訳文の対応関係が1対1であること」が鉄則です(そうでなければ、英語版を読んだ人と日本語版を読んだ人で理解が食い違ってしまいます)。
日本語の曖昧さをそのまま英語側でも温存するのか、あるいは条文を明確化したドラフトを作成するのか──その判断は当事者サイドがくだすものであり、翻訳者やAIが独断で行うべきものではありません。
いずれにしても、AI翻訳が「それらしく筋の通った英語」の出力を優先すると、当事者の合意内容が別物にすり替わってしまう可能性があり、「一義性が求められる契約書」というテキストタイプにおいては致命的なリスクとなります。
4. 契約書は、人の権利と財産に直結する文書
契約書は、単なる情報ではなく、「誰がどのような義務を負うのか」、「どの範囲まで責任を負うのか」、「どのような場合に損害賠償が発生するのか」といった、当事者の権利や義務、財産に直接影響するルールそのものを定める文書です。
ここに翻訳の誤りや解釈のブレがあれば、
- 想定していなかった損害賠償リスクを負う
- 一方的な取引停止・契約解除の根拠に使われる
- 社内外の信用を失う
といった形で、事業や個人の利害にそのまま跳ね返ってきます。
したがって、契約書の翻訳は「大意が分かればよい」「だいたい合っていればよい」というレベルでは済まされない面があります。
もちろん、AI翻訳は条文の内容をざっくり把握したり、一次的な理解を助けたりするツールとしては有用ですが、そのまま「契約の正式な英訳」として採用するにはリスクが大きすぎるのが現実です。
最終的な契約文として用いるのであれば、
- 原文・訳文双方を理解できる専門の翻訳者
- 必要に応じて、弁護士や法務担当者
といった人間の専門家によるチェックや修正を前提とするのが、安全な運用ではないでしょうか。
■実際に持ち込まれたAI翻訳の誤訳例
ここからは、私たちが法務系翻訳の実務で実際に遭遇したAI翻訳の誤訳パターンをご紹介します(内容が特定されないよう一般化しています)。
例① “shall / may / will” の誤訳で義務が逆転
原文:The Supplier shall provide the Products…
AI訳:サプライヤーは、本製品を提供することができるものとする。
日本語だけ読むと一見自然に見えますが、「shall」は義務を表す助動詞ですので、ここは「提供しなければならない/するものとする」が正しい解釈です。
■ 望ましい訳:「本件サプライヤーは、本製品を提供するものとする。」
「義務」が「任意の可能性」に変わっていると、無用なトラブルにつながる恐れもあります。契約書では、たった一語の読み間違えが重大な結果に直結しかねないため、動詞の助動詞1つにも神経を使う必要があります。
例② “including, but not limited to” が真逆の意味に
原文:including, but not limited to A, B, and C
AI訳:A、BおよびCを含むが、これらに限定される。
正しくは「含むが、これらに限定されない」です。
AIは「but not」以下をうまく処理できず、「limited」に引っ張られて「not」を無視してしまったようです。
■ 望ましい訳:「A、BおよびCを含むが、これらに限定されない。」
対象範囲を定める条項にこうした誤訳があると、本来対象に含むはずだったものが除外されてしまうことになります。
例③ 似たような意味を持つ単語の訳し分けが曖昧
英米の契約書でよくある「表明保証条項」に登場する表現で、
- represent:~という事実を表明する
- warrant:~が真実であることを保証する
というようにその意味するところに微妙な違いがあり、訳し分けによって当事者の責任範囲が変わります。AI翻訳では、いずれの表現も区別なく「保証する」と訳されていることが非常に多いですが、責任の範疇を曖昧にしないために正しく「表明」、「保証」などと訳し分けておいた方が安全です。
例④ NDAにおける開示情報利用目的の範囲を勝手に変更してしまう
秘密保持契約(NDA)では、一般的に「何の目的のために情報を開示するのか」──つまり情報を利用してよい範囲を縛る目的条項が含まれています。
原文:for the purpose of evaluating the potential transaction
AI訳:将来の取引について準備するため
これも訳文側だけ見れば自然な日本語になっていますが、「evaluating」(検討)が「準備」にすり替わっています。本来は「検討のための開示」だったものが、訳文上は「取引実行(の準備)のための開示」とまで読まれかねない内容になってしまっています。
NDAを締結する時点で、開示される情報は当事者にとって重要な情報のはずです。その利用目的がすり替わってしまえば、あとあと損害や係争の種になりかねません。
例⑤ 覚書で binding / non-binding が逆の意味に
覚書(MoU)や意向表明書(LoI)など、契約の“前段階”でよく使われる文書には、「本書のどこまでが法的拘束力を持ち、どこからは持たないのか」を分ける文言があります。
原文:This Memorandum of Understanding is non-binding, except for Sections 5 and 6.
AI訳:本覚書は、第5条および第6条を除き拘束力を有する。
これも「non-binding」(拘束力を持たない)の「non」を飛ばして「拘束力を有する」と誤解してしまったパターンです。あまりにも初歩的なためありそうに思えない誤訳ですが、意外と多いパターンです。人間でもやってしまいがちなエラーではあるため、AIの「人間らしさ」を表す間違いでもあるかもしれません。
■ 望ましい訳:「本覚書は、第5条および第6条を除き、法的拘束力を有しない。」
MoUの段階で binding / non-binding を取り違えると、当事者間の根本的な認識齟齬につながります。
■それでもAIを使ってコストを抑えたいなら、「AI+専門翻訳者」のハイブリッド
私たちは長年法務翻訳サービスを提供している立場上、上記のようなAI翻訳物の「問題点」に触れることが多くあります。多少は出現頻度が下がってきているとはいえ、どうしてもゼロにはならない「致命的な誤訳」をながめていると、やはり「重要な文書についてはプロである私たちにスクラッチからお任せいただきたい」という願いをもってしまうのが正直なところです。
しかしながら、コストとリスクのバランスという観点から実務的にAI翻訳の活用を考えるのであれば、次のようなハイブリッド方式が最も合理的なのかもしれません。
- 社内でAI翻訳にかけて叩き台を作る
- 重要部分を中心に、専門の翻訳者が全体をチェック・修正する
特に、「原文の分量が多く、すべてをゼロからプロ翻訳に出すのは予算的(時間的)に難しい」といった場合には、“AI+プロ”の組み合わせは現実的な選択肢になり得るでしょう。
■契約書翻訳の「安全ライン」はどこか?——チェックすべき5つのポイント
最後に、私たちが最低限、人間の専門家に見てもらった方がよいと考える重要ポイントを挙げておきます。
① 契約の目的(Purpose)
- 何のための契約なのか
- どの取引・案件を対象としているのか
- どこまでの行為が許容されるのか
Purpose が曖昧だと、契約全体の解釈がブレます。NDA・覚書・基本合意書など、前段階の文書では特に重要です。
② 責任範囲(Liability / Indemnification)
- どこまでが各当事者の責任か
- どこからは免責されるのか
- 上限額はどうなっているか
ここは、誤訳や取り違えがそのまま損害額に直結する部分です。例えば、日本語であれば「過失」と「重大な過失」では重みが全く異なってきますので、注意が必要です。
③ 準拠法・裁判管轄 (Governing Law/Jurisdiction)
- どの国・地域の法律に従うのか
- 紛争が起きた場合、どこの裁判所・仲裁機関で争うのか
海外の契約先から提示されたひな型をそのまま受け入れてしまうと、相手先所在国の法律や裁判所の司法管轄に従うというような条件になっている場合が多く、著しく不利な条件になってしまいます。AI任せにせず、自社の利益にかなうかを必ず確認すべき部分です。
④ 期間・更新・終了条項 (Term/Renewal/Termination)
- 契約期間はいつからいつまでか
- 自動更新か、都度更新か
- 中途解約は可能か(どのような条件か)
特にサブスクリプション型サービス・長期取引では、このあたりの条項の解釈がビジネスリスクに直結します。
⑤ 例外規定(Exceptions)
NDAや責任限定条項などに付随する「ただし書き」は、本則部分をどこまで修正するかを決める重要な箇所です。
ここを誤訳すると、本来守るべき情報が守られなかったり、逆に過度に縛られたりするリスクがあります。
■まとめ - AIを賢く使いながら、“任せてはいけないライン”を決めましょう
契約書では、文法的に自然かどうかよりも、契約上の意味が正しく伝わっているかと、責任やリスクが意図どおりに配分されているかの方がはるかに重要です。
AI翻訳を活用する場合はあくまで下訳や概要把握にとどめ、最終的な文言や重要条項の判断は、内容をしっかり理解できる人間の目を必ず通す、という線引きで運用されると安全かと思います。
谷口 翔平
タウ・トランスレーション主任翻訳者。20年以上の翻訳実務経験のなかで、多数の上場企業法務部、士業事務所様からの契約書や内部規定等の法務翻訳案件に対応。2021年には年間5,000万円超の案件にノークレームで対応実績。
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