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翻訳コラム02翻訳の難しさの
基本的な一側面について


大げさなタイトルですが、個人的な思考の整理と頭の体操を兼ねて、翻訳作業において少し念頭に置いておかなければならない「意味のズレ」について少し緩めに書いてみます。

「意味のズレ」とは、少し難しく言えば「語彙の守備範囲の違い」、もっと難解かつソシュール的に言えば語彙間の差異を切り取る分節(articulation)の仕方の違い(恣意性)という言い方になりますが(笑)、分かりやすく言えば「兄」と「brother」の違いですね。「brother」は「兄」を含むけれども必ずしも「兄」を指すとは限らない。「会社」と「company」も違うし、「手」と「hand」も違う、というか必ずしも「同じもの」を指示しているとは限らないということで、このようなケースは当然ながらかなり多く、極端にいえばほとんどすべての語彙について当てはまります。

「会社」の例で説明しますと、日本語の「会社」はかなり守備範囲の広い単語であって英語でいうところの「firm」、「company」、「corporation」、「business」、「concern」、「enterprise」など多くの語彙の守備範囲をカバーしているわけですが、例えば個人事業主を指すことのある「company」は必ずしも「会社」でない可能性があるし、我が社のような零細企業は法人格があっても「corporation」とはあまり言わない。

異言語間の翻訳者はこういう意味のズレを調整しながら訳しています、というお話なわけですが、そんなことは当たり前だっていうわけなので、もう少し突っ込んでいいますと、こういう意味のズレというのはソシュール言うところの純粋に言語学的な範疇でのみ起こっているわけではありません。

というのも、翻訳においては、読者が置かれた「文化的コンテキスト」によって微妙な意味のシフトが起こる語彙についても検討が必要となるわけです。

たとえば、かなり以前に米国の某企業のCSR(企業の社会的責任)文書を和訳した際のこと。十数チャプターあったその文書のなかに「Diversity」というチャプターがあり、しかもそのチャプターでは冒頭から「diversity」という語が頻出していました。多くの場合、これは字義通り(辞書的な1対1対応では)「多様性」と訳すべきところであるでしょう。しかし、このコンテキストにおける「diversity」の意味を一般的な日本人に理解させるには「多様性」という訳語では少々説明不足の感がありました。

というのも、その文書における「diversity」とは明らかに従業員の「人種的な多様性」を指していた(「人種問題に配慮して様々な人種の人々を雇用しています」という文脈)のですが、そのことが明示されたのはようやくチャプターの終盤に差し掛ってからだったのです。

以下は個人的な所感の域を出ませんが、おそらく米国では、2004年にアカデミー作品賞を受賞した『クラッシュ』など、その多民族性の諸相を描いた映画や小説が多くあるように、(少なくともマイノリティの人々には)その多民族性が強く意識されているのではないでしょうか。従ってCSRというコンテキストにおいて「diversity」という語が現れたときに、ある程度自然に「人種的な多様性」という意味を理解できる蓋然性が高いと思われます。

それに対して日本語の「多様性」はどうでしょうか。もしかすれば、「生徒の多様性を認める」などの表現のように、画一化に対する個性重視の立場を表現する際に使用される傾向が強いかも知れません。そうだとすれば、単に「従業員の多様性」と聞いたとき、個々人のパーソナリティにおける多様性を想起しやすいだろうと思われるわけで、この仮定に従えば、少なくとも一般読者を想定した場合には、「diversity」を「多様性」とだけ訳すとその含意がズレますので「多様性」は適切な訳語ではないと考えられます。

このように、辞書的には等価と見なされている「diversity」と「多様性」のペアであっても、米国のような多文化社会の一般人が「diversity」という語から想起するものと、単一民族社会(実際にはそうではないが、そのように意識されている)である日本の一般人が「多様性」という語から想起するものとは必ずしも同じではなく、実は微妙にその指示するものを異にしていると思われます。

当然、認知言語的にはそれは個人間でも異なる、という話になるのでしょうが(汗)、実際の翻訳ではそこまで検討できないので文化的なレベルまでは検討する必要があるでしょう。(2011/11)